季語講座(5)
季語と季感の違い
極論的な定義になりますが、季語というのは単なる単語、熟語に過ぎず、季感というのは、一句を鑑賞したときに醸し出される季節感をいいます。 "俳句は季語の有無ではなく季感の有無" という真理はそこにあるわけです。 具体的な説明を進めるためにまず以下の例句を御覧ください。
植え終へし棚田に風の生まれけり きみこ
老らくの手習を星御覧ぜよ 阿波野青畝
一読、三句とも無季だと感じられた方もおられるでしょうね。
植え終へし棚田に風の生まれけり
この作品は、"田植えの終わった棚田に…" という句意なので、季語らしい言葉は見当たりませんが、「植田」という季感が宿っています。
老らくの手習を星御覧ぜよ
鑑賞の難しい作品ですが、"七夕"、"星祭り" の句だと気づかれた方は合格です。 短冊や梶の葉に願い事を書いて、七夕の笹に吊るしますよね。
基本季語を分割して新しさへを目指すという手法もあります。ことばの魔術師といわれた青畝先生の作品から学びましょう。
海の日のつるべ落としや親不知 阿波野青畝
" つるべ落とし " だけでは季語として不十分ですが、" 海の日 " があることで、" つるべ落としの日 " の季語になるのです。
" 里の日の… "、 " 峡の日の… "、 " 湖の日の… " というような応用が使えますね。ことばをそのまま真似ると類想に流れやすいので、用法にヒントを得て活用するといいです。
さて例句に揚げた三句目の虚子の句はどうでしょう。
祇王寺の留守の扉や推せば開く
流石にこれは無季ですね。原句は、"祇王寺の草の扉や推せば開く" だったという説もあります。 もしそうならぎりぎり春の季感を宿しているとも言えます。 でも虚子は、当時祇王寺を庵としていた高岡智照老尼への存問の思いから、どうしても "留守の扉" にしたくてあえて無季にしたというエピソードをどこかで読みました。
無季の作品であっても詩情豊かでどことなく季感の漂う作品は数多あります。でもそれはあくまでも自由律というジャンルであって伝統俳句の一として認めることは私にはできません。
20万を超えると言われる虚子の句の中には、揚句も含めて数句の無季の句があるそうですが、いずれも後年になって句集や全集からは削除され、別の句に差し替えられたりしているとのことです。
[2018-09-11 14:04]